愛車ビートルに乗って、陶磁器(焼物)の産地を巡ったりするのが趣味だったりします。焼物の産地を巡って、気に入った猪口(ちょこ)をひとつ買って帰るってのをやってます。今日は、日本各地の焼き物産地について紹介します。西日本中心になっている点はスミマセン・・・。
陶磁器 は 陶器 と 磁器 の総称です。他に、これらより古い 土器 と 炻器(せっき) があります。
土器は、縄文時代から弥生時代に始まったもので、粘土を主成分とし、釉薬をかけずに低い温度(800度程度)で焼いたものです。窯ではなく野焼きで焼かれました。弥生時代以降のものは 土師器(はじき) とも呼ばれます。
炻器は、古墳時代から飛鳥時代に始まったもので、粘土を主成分とし、釉薬をかけずに土器よりは高い温度(1100~1250度程度)で焼いたものです。備前焼, 信楽焼, 常滑焼 などは炻器に分類されます。
陶器は、陶土と呼ばれる色付の土(粘土50%、珪石40%、長石10%程度)を使用し、低めの温度(1200度程度)で焼きます。表面はざらりとしており、吸水性があります。土独特の特徴が残っており「土もの」とも呼ばれます。叩くと「ゴン」という鈍い音がします。
磁器は、磁土と呼ばれる白い石紛(珪石40%、長石30%、粘土30%程度)を使用し、高めの温度(1350度以上)で焼きます。表面はガラス化してつるんとしており、吸水性は低いです。石から作るので「石もの」とも呼ばれます。叩くと「カン」という高い音がします。安土桃山時代以降に始まりました。
陶磁器は主には、①土を練る。②成型する。③乾かす。④高台を削る。⑤素焼きする。⑥絵付けする。⑦釉薬をかける。⑧本焼きする。という工程で作られます。
名前をクリックすると説明にジャンプできます。
それぞれの焼き物の知名度を比較してみました。カッコ内の数値は Google で "焼物名" を検索した時のヒット数(千件単位)です。
北海道札幌市の焼き物です。1899年(明治32年)頃から徐々に生産が始まり、中井賢治郎の中井陶器工場などが中心となって活動していましたが、1925年(大正14年)に一度廃退してしまいました。戦後、中井陶器工場の陶工だった涌井広三の甥である涌井辰雄が1977年(昭和52年)に北辰窯を開設して札幌焼を復活。その流れを阿妻一直が継ぎ、1986年(昭和61年)に札幌焼盤渓窯を開設。今に至っています。渋みのある青を基調としたコーヒーカップなどの日用食器が人気の様です。
岩手県久慈市の陶器。白を基調とした淡い色のものが多く、茶碗やティーカップなど普段使いに適しています。
山形県尾花沢市の焼き物です。江戸時代末期に伊万里の流れをくむ磁器の産地として活動していましたが、財政難によりわずか10年ほどで衰退し「幻の焼き物」と呼ばれていました。これを、花沢市出身の伊藤瓢堂が1980年(昭和55年)に復活。伊藤瓢堂さんの東羽都山窯で伊藤瓢堂さん、伊藤千春さん、松浦加奈さん、1992年(平成4年)に開窯した東羽美山窯で高橋美山さん達が作品を作られています。「風水三多紋」と呼ばれる、風水の縁起をかつぎ、白地の磁器に藍色で桃、柘榴(ざくろ)、仏手柑の三つの果実の絵を描いた皿などが作られています。
宮城県仙台市の陶器。黒と白の釉薬を同時にかけ流すことによる、黒と白の自然なコントラストが特徴の「なまこ釉」が有名です。
茨城県笠間市の陶磁器。1770年代にはじまった「箱田焼」と「宍戸焼」が源流と言われています。「特徴がないのが特徴」と言われるように、日用食器を中心に古今和洋様々なものが焼かれています。ゴールデンウィークには陶炎祭(ひまつり)が開催されます。陶器店は広範囲にあるので、車でない場合は笠間駅でレンタサイクルを借りると荷物も預けられて便利です。
栃木県芳賀郡益子町周辺の陶器。薄く色づいた白、淡い青、淡い土色など様々な色やデザインのものがあります。江戸時代末期に笠間で修行した大塚啓三郎が始め、江戸に近いことから鉢や水瓶などの日用品を多く生産するようになりました。1924年には濱田庄司が日用品の中に美を見出す民芸運動を進める拠点として益子を選び、活動しました。現在も約160の窯元、約50の陶器店が並びます。ゴールデンウィークと11月頃には陶器市が開催されます。
石川県金沢市、小松市、加賀市、能美市周辺の磁器。有田・伊万里焼に継ぐ磁器の名産地です。白地に五彩(緑・黄・紫・赤・紺青)を用いた古九谷(こくたに)、赤を基調に人物図を描く木米(もくべい)、赤を使わず黄と緑を基調とする吉田屋(よしだや)、白地に赤い文様の飯田屋(いいだや)、古九谷や吉田屋の技法を再現した庄三(しょうざ)、赤字に金襴の永楽(えいらく)など、時代により様々な様式のものが生み出されてきました。九谷陶芸村で数々の窯の焼き物をまとめて見ることができます。
石川県珠洲市の陶器です。須恵器の技法を引き継いでおり、粘土を巻き上げ、叩きしめ、無釉のまま高温で焼き上げます。灰が自然釉となり灰黒色の素朴ながら力強い雰囲気のものが多いのが特徴です。閉館間際の駆け込みだったのでゆっくり見ることはできませんでしたが、珠洲焼館で多くの作家さん達の作品を見ることができます。
福井県丹生郡越前町の陶磁器。平安時代末期にはじまる古い焼き物で水瓶などを生産していましたが水道の普及により寿命が落ち込み一時は衰退していました。昭和23年水野九右衛門氏、小山冨士夫氏によって調査が進められ、日本六古窯 のひとつに数えられられたことなどから復興し、現在に至っています。土の風合いをそのままに活かした素朴なものが多く、花瓶などがよく扱われています。越前陶芸村を中心に約80もの窯があります。国成窯を訪問したところ、越前焼の歴史や土について親切に教えていただけました。
岐阜県土岐(とき)市、多治見(たじみ)市、瑞浪(みずなみ)市、可児(かに)市に跨る陶磁器。日本三大陶磁器 のひとつ。「黄瀬戸」、「瀬戸黒」の他、国宝「卯花墻(うのはながき)」を生み出した「志野焼」、利休の弟子、古田織部(漫画「へうげもの」の主人公)が監修した独特なユーモラスさをもつ「織部焼」などに分類されます。
愛知県瀬戸市周辺の陶磁器。日本三大陶磁器、日本六古窯 のひとつ。日本の陶磁器の代表格で、陶磁器のことを「瀬戸物」とも呼ぶくらい、日本の陶磁器の代表格でもあります。古いものから新しいデザインのものまで、ありとあらゆるジャンルの焼物がそろっています。美濃焼と近いこともあり、町を回ると流行りの織部焼などが売られていたりもします。
愛知県常滑市の陶磁器。日本六古窯 のひとつ。平安時代末期(1,100年頃)から続く古い産地です。釉薬を用いない「焼締(やきしめ)」と呼ばれる焼き方が特徴です。江戸時代に稲葉庄左衛門が始めた赤茶色の急須は現在も常滑焼の主力製品で、日本全国の家庭でもよく見かけると思います。知らない人でも画像を見ると「あぁ、これかぁ」と思うはず。
三重県四日市市の陶磁器。土の色合いを生かした急須や土鍋が有名です。
三重県伊賀市の陶器。信楽焼と少し似ています。厚めで土鍋などがよく利用されます。
滋賀県甲賀市を中心とする陶器。日本六古窯 のひとつ。鎌倉時代に常滑焼の技術が伝わり、始められました。土を洗浄することなくそのまま用いて、土感をそのままに生かした力強いものが特徴です。以前は日本の火鉢のシェア80%を占めていました。今では狸の置物が有名ですので、これも、写真を見ると「これかぁ」と思うでしょう。
滋賀県大津市の陶器。遠州七窯 のひとつ。京焼の色文様をもう少し淡くした風情のある感じで、茶器としても利用されます。
京都の焼き物で、瓦職人の長次郎が千利休の指導により、聚楽第建造の際に掘り出された土を使って焼き上げた「聚楽焼」が始まりといわれています。「一楽二萩三唐津」と言われ茶人に愛されてきました。轆轤(ろくろ)を使わず手捏ね(てづくね)で成型するものが多いようです。長次郎の妻の祖父田中宗慶が豊臣秀吉から「聚楽第」の1文字を取り「樂」家の名前を与えられたのが樂家のはじまりで、二代目以降は 樂吉左衛門 の名を世襲します。先代には後代に名を譲った後に 道入、宗入、覚入、直入などの名が送られます。現在は第十五代吉左衛門(直入)から第十六代吉左衛門が名を継いでいます。詳細は下記の家系図を参照してください。樂家の他に、国宝 不二山 の作り手本阿弥光悦が居ます。光悦の玄孫(孫の孫)は樂家に婿入りし第五代吉左衛門(宗入)となりました。画家として有名な尾形光琳も光悦の玄孫(宗入の従弟)になります。
楽焼のお猪口をひとつと思っていたのですが、樂美術館で展示品を鑑賞する他は、簡単に売っているものでもなく、簡単に買えるものでもなかったので、仕方なく樂美術館の写真をはっときます。
京都の陶磁器。有田焼・伊万里焼のように赤色などを用いた繊細な文様のものも多いですが、少し繊細な色合いが特徴です。東山山麓地域を中心に焼かれるものを京焼、清水寺の参道(五条坂)付近で焼かれるものを清水焼と呼んでいましたが、現在ではこれらを区別なく「京焼・清水焼」と呼んでいます。経済産業大臣指定伝統的工芸品としての名称も「京焼・清水焼」の様にまとめて呼ばれます。紅葉と桜をまとめて描いた模様を雲錦(うんきん)と呼び、京焼・清水焼で好まれる絵柄のひとつとなっています。本阿弥光悦の玄孫(孫の孫)である尾形乾山(尾形光琳の弟)なども有名です。
京都府宇治市の焼き物で 遠州七窯 のひとつとされていた朝日焼です。陶作(初代)から始まり、宇治のお茶と共に歩み、現在は十六世豊斎が当主となっています。平等院の川向に朝日焼のShop&Galleryが1軒だけあり、十六世松林豊斎の作品や、他の職人によって朝日焼工房で焼かれた一品を見学・購入することができます。
兵庫県豊岡市出石町の磁器。出石は皿そばが有名ですが、町内に何軒も、出石焼の皿で提供される皿そばの店があります。「白より白い」とも言われる白磁が有名で、白磁に精密な浮彫・透かし彫りを施したものをよく見かけます。出石観光案内所を中心に、いくつかの製陶所があります。山本製陶所の青の練り込みのものがお気に入りです。
兵庫県丹波篠山市の陶磁器。「丹波立杭焼」とも呼ばれます。日本六古窯 のひとつ。17世紀頃には、東日本側で瀬戸焼と二分するくらいのシェアがあったそうです。登り窯の中で松の灰が釉薬と化合して窯変して「灰被り」と呼ばれる文様をなすのが特徴ですが、土色の壺から現代的な色合いのティーカップなど、古風なものから現代的なものまで、様々な色やデザインのものがあります。
兵庫県明石市を中心とする陶磁器。淡い色彩ながら、薄赤、薄青、薄緑、薄黄など様々な色のものがあります。江戸時代後期に最盛期となり、明治にも輸出が盛んでしたが、大正時代に入り衰退し、現存する窯は少ないそうです。
奈良県奈良市周辺の陶器。遠州七窯 のひとつ。赤膚の名前ですが、淡い肌色にチャーミングな模様のはいった、落ち着きの中にちょっと楽しみの入った陶器です。
和歌山県和歌山市の陶器。1796年に岡崎屋阪上重次郎が和歌山市畑屋敷新道町(旧鈴丸町)で開窯したのが始まりで当時は鈴丸焼と呼ばれていました。1801年に滅法谷に移転して滅法谷焼とも呼ばれました。同年、紀州徳川家の徳川治宝に命じられ、青木木米(九谷焼の木米の指導も行った京都の文人)の指導の元青磁を焼くようになり、治宝から「瑞芝」の名前がつけられ、男山焼、偕楽園焼と並び紀州三大陶窯のひとつとなりました。1874年第三代阪上重次郎の代に一度廃窯しましたが、1973年第五代阪上節介が美濃の梅平窯で修業した後、地元に戻り善明寺で復窯。現在は第六代阪上重次郎さんが継がれています。
瑞芝焼窯元瑞芝堂まで行ってみたのですが、あいにく休み。仕方なく庭先にあった焼き物の写真を撮らせていただきました(勝手に...スミマセン)。他に販売店とかも見つからず、オークション等で手に入れるしかないかも。あとは、和歌山市観光土産品センターで売っていたかも?
紀州徳川家の御庭焼き。1827年頃に徳川治宝が西浜御殿内の偕楽園(現在の和歌山市西浜3丁目付近。徳川斉昭が造園した水戸の偕楽園とは別)で焼かせたのが始まりです。京都から永樂保全、仁阿弥道八や、樂家の九代了入、十代旦入らを招いて製作しました。楽焼の他、黄・紫・緑等の交趾・青磁等があります。瑞芝焼、男山焼と並び紀州三大陶窯のひとつとなりましたが、治宝が亡くなる1852年頃には廃れてしまいました。
和歌山県有田郡広川町の陶器。紀州徳川家の徳川治宝が藩の御用窯として開いたのが起源で、1827年に崎山利兵衛が発願、藩の支援の元半官半民の形で開窯しました。広川町男山の南面にあったことから男山焼と呼ばれ、瑞芝焼、偕楽園焼と並び紀州三大陶窯のひとつとなりました。26基の窯を持ち、日用雑器を主力とし、和歌山県有田市箕島の箕島陶器商人(宮崎陶器商人)らによって全国各地に摘みだされました。この時には伊万里焼と称して売られていたこともあったようです。白地に繊細な青の模様が綺麗です。しかし、治宝の死後経営難が続き、1856年頃藩から民営に払下げられ、多少の支援は続いたものの、明治になってからは支援も途絶え、1878年頃に廃窯しました。1992年に広川町のふるさと創生事業の一環として男山焼会館が開館し、当時の作品を展示すると共に陶芸教室が開かれています。
1932(昭和7年)に初代寒川栖豊が和歌山県高野山小田原で開窯したのが始まり。1937年(昭和12年)に紀州旧藩主徳川頼貞から紀州焼葵窯の名を賜わり、紀州の焼き物(瑞芝焼、男山焼、偕楽園焼)の復興を目指しました。現在の白浜に移転。1956年には念願の那智黒釉を完成させ、しっとりとした黒色が茶人に愛されてきました。現在は第二代寒川栖豊さんが継いでおられます。
島根県松江市玉湯町布志名を中心とする焼物ですが、淡い青色・水色の雲善窯(うんぜんがま)、淡い土色に絵を施した雲寅窯(うんとらがま)、ジブリ映画に出てきそうな暖かい茶系が特徴の湯町窯(ゆまちがま)など、窯によって様々な焼き物があります。島根県の安来市、松江市、出雲市、太田市、江津市、浜田市、益田市にかけては、山陰焼物ベルトとも言うべき、いろいろな窯、いろいろな焼き物があり、とても2日間ではまわりきれませんでした。
島根県出雲市斐川町出西の出西窯。昭和23年初窯の比較的新しい焼物です。「出西ブルー」と呼ばれる鮮やかなターコイズブルー特徴的です。「くらしの陶・無自性館」という展示販売場があります。「縁鉄砂呉須釉皿(ふちてっさごすゆうざら)」がとても綺麗でした。行った時には気に入る出西ブルーの猪口・ぐい吞みはなかったのですが、どうしてもブルーの猪口が欲しくなり、後日ネット購入しました。
島根県太田市温泉津町の焼き物。宝永年間(1704-1708)に始まり、食器や水を溜め置く半斗(はんど)などを出荷していましたが、プラスチック製品や水道の普及により一時衰えましたが、現在も静かな山道に、椿窯、(有)椿窯、森山窯という3つの窯があります。「やきものの里」という展示販売所で3窯の作品を見たり購入することができます。
島根県江津市を中心とする焼物です。温泉津焼と同様、明治時代には飯銅(はんどう)と呼ばれる水瓶の生産で100を超える窯元がありました。今では生産は減っているものの、江津市から浜田市ににかけていくつかの窯元があります。素朴な色合いの 延里窯、渋さを感じる 石州嶋田窯、すり鉢主力の 元重製陶所、白の釉薬が綺麗な 石州宮内窯、梅干しを入れたくなる 吉田製陶所、淡い色合いの 尾上窯、カラフルな 雪舟窯、深海を思わせるブルーの 亀山窯(石州亀山焼)、窯変天目的ようなブルーの 秀山窯、落ち着いたブルーの 桝野窯など、それぞれの窯元によって個性が出ていて面白いですね。
岡山県備前市の焼物です。日本六古窯 のひとつ。釉薬を用いない陶器の代表格です。赤みがかった土独特の味わい。焼きの際、藁をあてがって赤と白の焼きむらをつける「緋襷(ひだすき)」や、他の陶器を重ねて焼くことによりできる「牡丹餅(ぼたもち)」などの模様が人気です。私は酸素不足な状態で焼かれることで青い雰囲気のでる「青備前」が好きです。買いそびれてしまったので、もう一度買いに行きたい。(→ 行きました。2023年7月)
岡山県瀬戸市邑久町虫明地区で生産される陶器。備前焼と非常に近い場所ですが、備前焼とは全く異なり、深い味わいのある緑の焼物が好きです。焼物会館とか専門店は無く、現在の第一人者黒井千左さんの自宅で、千左さんご自身やお弟子さんたちの作品の展示と販売が行われていました。今のところ一番のお気に入りです。
広島県廿日市市の陶器。安芸の宮島の近くです。天明・寛政の頃に宮島の砂を「お砂守」として受け取って旅に出て、それを土器に混ぜて焼いた「お砂焼」が始まりと言われています。「御砂焼(おすなやき)」や「神砂焼(しんしゃやき)」とも呼ばれます。淡いピンク色が綺麗で、素朴なつくりのものが多いです。1910年には京都で修行した川原陶斎が窯を開き、1912年に山根興哉が続きました。本物の宮島の紅葉の葉を張り付けて模様としたものが特徴的です。一時は衰退しましたが、1892年に再興。宮島の島の中ではあまり売っている店は無く、フェリー乗り場の本土側に3軒の店があります。
広島県福山市でかつて栄えていた陶磁器。有田焼(伊万里焼)、九谷焼と並び、日本の三大磁器産地ともいわれた時期もありましたが、生産期間は 1660~1685年頃と短く、現在は幻の焼き物となっています。有田焼、九谷焼と同じく、白磁に赤を特徴とする絵柄のものですが、草花をシンブルに描いたものが多く、有田・九谷よりは若干素朴な雰囲気に感じます。
山口県萩市の焼物です。「一楽二萩三唐津」と言われ、茶人に愛されてきました。陶土と釉薬の具合によってできる「貫入」や、使い込むことにより変化する「七化け」がよいそうです。お茶をやっている人だと、三輪休雪(みわきゅうせつ)さんのお茶碗とか有名みたいですね。私は、ちょっと新しい萩焼の感じの小田光治さんが気に入り、徳利を購入してみました。
元禄13年(1700年)に京都から陶工を招き、岩国藩の御用釜として岩国氏多田に開窯しました。約100年間で1000点近くが献上されましたが多くは残っていません。一度は廃れましたが、1973年に初代雲渓さんが多田の地で多田焼を復活させ、1981年に美川町河山に転窯、現在は二代雲渓さんが継いでおられます。上品さの感じられる淡い緑色の、貫入のはいった青磁釉が特徴です。
多田焼の近くで1973年に山田象陶(しょうとう)氏が吉香窯を開窯されました。現在は、象陶さんは窯元と同じ場所で食べログでも評価の高い「手打ちうどん 山田屋」を経営されていて、焼き物は息子の哲夫さんが継いでおられます。多田焼に比べ、鉄釉(黒)、青磁など様々な色合いのものが焼かれています。写真のものは岩国の白蛇にちなんで白蛇釉と名づけられています。うどんも美味しかったです。
徳島県鳴門市大麻町大谷で作られる炻器です。1780年に四国八十八カ所巡礼で訪れた納田文右衛門が轆轤(ろくろ)を用いた焼き物を披露したことが始まりとされています。当初は染付磁器を焼いていましたが、高級な原材料を取り寄せていたことなどから経営が悪化しわずか3年で廃窯。1784年に藍職人の賀屋文五郎や信楽の陶工らの手によって再興します。一人が寝そべって足で轆轤(ろくろ)を回し、もう一人が成型する 寝轆轤 を用いた大甕などを生産していました。最盛期には十数軒の窯がありましたが、今は6つの窯が残っています。
愛媛県伊予郡砥部町の焼物です。奈良・平安から続く歴史あるもので、砥部で採掘されていた「伊予砥(いよと)」という砥石を原料にしていました。白磁に呉須と呼ばれる青色の顔料を大胆に筆書きしたシンプルなデザインのものが多く、普段使いにも飽きのこないところが好きです。厚手で丈夫なところから投げても割れない「喧嘩器」と呼ばれたりもします。
高知市の焼き物です。1653年に藩主山内忠義の指示により大阪から陶工を招いて開窯したのがはじまります。淡い土色の上に青い呉須で絵付けしたものが特徴で、温かみのある焼き物です。明治までは数軒の窯がありましたが、現在では谷製陶所と土井窯の2軒のみが残っています。土井窯はあいにく閉まっていましたが、谷製陶所の谷さんが土の作り方から焼き方まで丁寧に説明していただきました。
福岡県田川郡の陶磁器です。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が連れ帰った金尊楷を1602年に千利休の七哲の一人である豊前藩主細川忠興公が招き、豊前国で開窯したのがはじまりとされています。皿山(本窯)、窯の口窯、岩谷窯(唐人窯)の3つの窯が最も古く、上野古窯と呼ばれています。茶人にも好まれ、遠州七窯 のひとつにも選ばれています。現在では約20の窯があります。青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬が用いられますが、最近は写真の緑青流しがよく出ているようです。。
福岡県の直方(のおがた)から東峰村を中心とする陶器です。朝鮮出兵の際に黒田長政公が朝鮮から連れ帰った陶工が直方の鷹取山麓の永満寺宅間で1602年(1600年?1606年?)に開窯したのが始まりとされています。長政から「高取」の姓を受け「高取八山重貞(たかとりはちざんしげさだ)」と名乗りました。二代八蔵貞明の時代に現在の東峰村に移りました。高取焼の窯元は福岡県の各地に点在していますが、東峰村の高取焼宗家は高取八山の直径の窯元で、現在は十三代高取八山が継がれており、息子の春慶さんもいずれは十四代を継がれるそうです。遠州七窯 の筆頭とも言われています。藁灰、木灰、長石、酸化鉄を原料として白、黄、黒、黒錆、薄黒、飴、道外どうけ、春慶、ふらし、の七色の色合いを醸し出す様は「七色薬(なないろぐすり)」と呼ばれ、重厚な趣ながら薄手で軽く手触りや口当たりがよく、お気に入りの2品です。
福岡県朝倉郡東峰村の陶磁器です。1669年に高取焼の初代八山の孫八郎が小石原に移り開窯していたところに、1682年に福岡藩の藩主が伊万里から陶工を招き、高取焼とも交流しながら始まりました。高取焼が小堀遠州の好む「綺麗さび」と呼ばれるのに対し、小石原焼は日用品を中心に生産され「用の美」と言われています。轆轤(ろくろ)を回しながら鉋(かんな)や刷毛(はけ)を用いて、「飛び鉋(とびかんな)」、「刷毛目(はけめ)」などの幾何学的模様付けを行うものが特徴です。
大分県日田市の陶器。1705年に日田郡大鶴村の黒木十兵衛が小石原の柳瀬三右衛門を招いて開窯したのがはじまりとされています。現在も三右衛門直系子孫の窯が10窯(現在は9窯)ほどあります。飛び鉋(とびかんな)、刷毛目(はけめ)など小石原焼の技法がみられる他、討ち掛け、流し掛け、指描き、櫛描きなどの技法が用いられます。小石原から小鹿田までは車で30分程度ですが、離合できない山道が続くので運転に自信の無い場合は日田市街経由で行った方がよいかもしれません。対向車が来たら最後...と泣きそうになりながら回ってきました。小鹿田焼陶芸館で地図をもらい、徒歩で9窯を回るのがおススメです。ししおどしの原理で水の力で陶土を砕く唐臼(からうす)も現行で稼働しているのは九州でここだけだそうです。
佐賀県・長崎県北部の陶器。素朴な色柄と模様で親しみがあります。「一楽二萩三唐津」と呼ばれるほど茶器としての定評があります。昔は「東のせともの、西のからつもの」と呼ばれるくらい盛んでしたが、一時衰退。昭和に入り、12代中里太郎右衛門(人間国宝)による復興の努力などにより再び着目されるようになりました。絵の施された「絵唐津」、黒と白のコントラストが美しい「朝鮮唐津」、藁灰を混ぜることで斑模様の浮かび出る「斑唐津(まだらがらつ)」、朝鮮由来の幾何学的文様を描いた「三島唐津」、粉を引いたかのような「粉引唐津」など、いくつかの種類があります。
佐賀県有田町を中心とする磁器。日本三大陶磁器 のひとつ。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に大陸から連れ帰った李参平が有田町の泉山で白磁に適した磁石を発見したことから、白磁の一大生産地となりました。盛んに生産したため、現在は山がひとつ無くなっているそうです。最初は青い文様のみでしたが、次第に赤、緑、黄、青、黒で色鮮やかな絵柄を描いたものが有名になってきました。特に、酒井田柿右衛門が始めた柿右衛門様式の磁器はヨーロッパにも輸出され、貴族に珍重されました。当時はまだヨーロッパでは磁器を焼く技術が無く、ドイツのマイセンなども伊万里焼を手本に磁器の製作を試みていたとのこと。有田焼の生産は主に有田町ですが、有田町に隣接する伊万里市の伊万里港から海外に輸出されたことから「伊万里焼」とも呼ばれます。江戸時代までに作成された伊万里焼の中で骨董的価値があるものを特に「古伊万里」と呼びます。
有田町の西隣に位置する、佐賀県武雄市(たけおし)の陶磁器です。武雄市内に約90の窯元がそれぞれ独自の技法・趣向をこらした焼き物を生産しており、有田焼とはまったく異なった趣の焼き物を見ることができます。
佐賀県武雄市武内町で丸田家が受け継いでいる焼き物です。伺ったときは丁度「火まつり」の最中で、集落の中で展示販売が行われていました。無骨ながらも力強さを感じる焼き物が多くありました。2014年に先代の丸田宣親さんが亡くなられてからは、息子の丸田延親さんがあとを継いでおられます。窯のすこし手前では、世界一の広さを誇る「飛龍窯」を見学することもできます。
佐賀県嬉野市の磁器。有田から南東に車で30分ほどの場所です。現在では波佐見焼に似た現代的な生活食器を中心に生産しています。安土桃山時代頃に始まり、江戸時代末期に一度下火に。明治に再興し、大正時代には朝鮮向けの輸出市場をほぼ独占する勢いでしたが、再度下火となり、現在は11の窯が残っています。時間の都合で訪問することができなかったので、画像 のリンク先を参照ください。
佐賀県神埼市の陶器。起源は1280年頃と古く、江戸時代には幕府への献上品にもなりましたが、焼成温度が低く脆いため現存しているものは少ないそうです。現在では日の隈窯のみが残っています。古い尾崎焼は黒と茶を基調とする文様無しのものが多いようですが、日の隈窯では和紙を草花の形に切り抜き、その上から絵の具をしみ込ませ、和紙を取り除いた後で線を書き加える「和紙染」の焼き物が多く焼かれていました。他に、古くからある尾崎焼としては、「尾崎人形」という鳩や人形の焼き物が伝統として残っています。
佐賀県三養基郡(みやきぐん)みやき町の焼き物。江戸時代末期には有田焼に匹敵する名産地として盛んでしたが、明治以降は衰退し、現在では瀧水窯、百十窯、佐藤窯、裕翠窯などが残っています。・・・と書いていたのですが、2021年11月に伺った時には、瀧水窯、百十窯はもう焼物を辞められているとのこと。佐藤窯の佐藤華祐さんに焼き方や技法などいろいろ教えていただきました。
佐賀県藤津郡弓野で焼かれていた陶磁器。江戸時代にはじまりましたが、現在は廃絶しています。土色の混じる焼き物に松の絵を描いたものが多く「弓野の松絵」と呼ばれていました。
長崎県東彼杵郡波佐見町の陶磁器。江戸時代には日本全国に流通し、庶民が買うことができる磁器として広まりました。京都・大阪では「くらわんか碗」と呼ばれていました。酒や醤油を輸出するための「コンプラ瓶」も作られていました。1990年代には、日本の生活雑記の 1/4 から 1/3 程度のシェアを占めていたこともあるそうです。白磁をベースとしながら、現代的なデザインや色・形も多く、日用陶器として親しまれています。
長崎県佐世保市の陶磁器です。平戸焼とも呼ばれます。白磁に青の呉須で唐子(からこ)と呼ばれる子供の絵を描いたものが特徴で、7人のものは将軍家や朝廷、5人のものは大名家、3人のものは一般大衆向けと制限されていました。他にも透かし彫り、浮き彫り、菊花飾細工など、非常に技巧の高いものが生産されています。三川内美術館や隣接する陶芸の館は無料で見学することができ、いくつかの窯元の地図などの情報も入手することができます。
熊本県の北端にある荒尾市を中心とする陶器。「小岱焼」とも表記します。様々な色合いの釉薬を流しかけた、素朴で力強い作品が多いです。ふもと窯、しろ平窯、中平窯(なかでら)、ちひろ窯、野田窯、たけみや窯、末安窯(すえやす)、太郎窯、瑞穂窯、岱平窯(たいへい)、一先窯(いっさき)窯、松橋窯(まつばせ)窯の12の窯がありましたが、太郎窯は現在廃窯されているそうです。いくつかの窯元を回り、いろいろな話を聞かせていただきました。一先窯では初めて轆轤(ろくろ)を回している現場を拝見させていただきました。時間があれば11窯元すべて回ってみたかったです。
鹿児島の陶磁器。「白薩摩(白もん)」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の陶器が多いですが、「黒薩摩(黒もん)」と呼ばれる大衆向けの雑器もあります。
沖縄県の陶磁器。那覇市の国際通りに近い壺屋やちむん通りに壺屋焼の店が何軒も並んでいます。「焼き物」のことを沖縄の言葉で「やちむん」と読むことから、沖縄の陶磁器自体を「やちむん」と呼ぶことが多いようです。デザインはやはり、力強いものが多いですね。沖縄らしい鮮やかな色使いと文様がきれいです。
国宝に指定されている陶磁器は下記の14点だそうです。「卯花墻」と「曜変天目茶碗」は一度本物を見てみたい・・・。曜変天目は、何年か前に「なんでも鑑定団」で、「4個目の曜変天目が見つかったか!?」なんて、話題になっていましたね。
中世から現在まで生産が続く代表的な窯として「越前焼」、「瀬戸焼」、「常滑焼」、「信楽焼」、「丹波焼」、「備前焼」があげられています。1948年頃に古陶磁研究家の小山冨士夫氏さんが命名し、2017年春に日本遺産に認定されたそうです。六ヶ所の市町による六古窯日本遺産活用協議会が発足し、Webサイトが開かれています(参照)。
江戸時代の近江小室藩主で茶人としても知られる小堀政一。遠江守(とおとおみのかみ)であったことから「遠州」と呼ばれ、今でも茶道遠州流に引き継がれています。遠州が指導、または遠州の好みに応じた全国7つの窯は「遠州七窯(えんしゅうなながま・えんしゅうしちよう)」と呼ばれ、茶器の中でも一目おかれています。「志都呂焼」、「膳所焼」、「朝日焼」、「赤膚焼」、「古曽部焼」、「上野焼」、「高取焼」の七つ。ただ、古曽部、赤膚などは遠州没後に開窯されたもので、正確には遠州が直接関わった窯以外に、遠州が好みそうなという観点で、1854年の田内梅軒による「陶器考」などで挙げられたものと思われます。
灘や伏見に比べてそれほど有名ではないのですが、日本三大酒処は「灘(兵庫)」、「伏見(京都)」、「西条(広島)」と言われています。この西条で毎年10月に2日間に渡って20万人が参加する「酒祭り」が開催されます。ここで配られるお猪口が、手になじみが妙によく、実はお気に入りの一品だったりします。