とほほの仏教入門

目次

はじめに

我が家の宗教は仏教です。数年前までは毎月車で1時間ほどの実家でお寺さんを迎え、お経を読んでいただいていました。経本を見ながらですが、一緒にお経を読んだりもしていました。妻のお義父さんが亡くなられた時、うちの家にも仏壇を迎えることとしたのですが、お義父さんは真言宗、自分は浄土真宗。仏壇は真言宗の黒系にするのか、浄土真宗の金ぴかにするのか、真言宗の位牌は置くのか、浄土真宗にならって位牌は置かず過去帳にするべきなのか・・・とか、悩んでいたことを思い出します。今は、金ぴかの浄土真宗の仏壇に真言宗の位牌を置くという、両宗の住職さんが見られたら眉をひそめられるんじゃないかという折衷様式のまま、日々過ごしています。今日はちょっと、仏教についてとか、宗派による違いなどを紹介してみたいと思います。

仏教とは

大分類

大乗仏教(だいじょうぶっきょう)

仏教の二大流派(大乗仏教と上座部仏教)のひとつ。上座部仏教が出家・苦行した者しか救われないと説くのに対し、出家・苦行せずとも誰でも救われると説く。「大きな船(乗)」で彼岸に渡れることから大乗仏教と呼ばれます。日本、中国、韓国、ベトナム、ネパール、ブータン、チベット、モンゴルなどに広まっています。

上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)

仏教の二大流派(大乗仏教と上座部仏教)のひとつ。出家・苦行した者のみが救われるとされます。スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどに広まっています。

小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)

上座部仏教のことを、大乗仏教の人たちが「小さな船(乗)」と揶揄して呼び出したもので、上座部仏教と呼ぶのが望ましいようです。

顕教(けんぎょう)

大乗仏教の中の二大流派(顕教と密教)のひとつ。廬舎那仏を中心とし、仏の教えは「沈黙の仏」である廬舎那仏の代わりに釈迦如来が現世で言葉で顕(あらわ)しているとすることから、密教の対語として空海が名づけた呼び方です。

密教(みっきょう)

大乗仏教の中の二大流派(顕教と密教)のひとつ。大日如来を中心とし、仏の教えは「雄弁の仏」である大日如来から直接聞くのですが、修行仏である菩薩であってもすべてを悟ることができない深遠秘奥なものであること、三密(身密・口密・意密)(=心技体のようなもの)をもって理解することなどから密教と呼ばれます。また、大日如来がすべてであり、私たち自身も大日如来様が姿を変えたものであるのだから、生きたままであっても成仏できるという即身成仏を説いています。日本には空海や最澄によって伝えられました。空海の真言宗を東密、最澄の天台宗を台密とも呼びます。

仏様の階層

仏様には下記の4つの階層があると言われています。狭義には 仏=如来 ですが、広義には 仏=如来・菩薩・明王・天部 となります。

如来(にょらい)

仏界の最高位。「悟りを開いた者」「真如(=真理)から来た者」の意味を持ちます。悟りを開いて如来になると欲から脱して衣服もシンプルなものになる他、髪の毛がくるくると丸まって螺髪(らほつ)と呼ばれる独特のヘアスタイルとなります。釈迦如来阿弥陀如来薬師如来大日如来など。

釈迦如来(しゃかにょらい)

本名はゴータマ・シッダールタ釈尊(しゃくそん)とも呼ばれます。私にとってはお釈迦様ですね。紀元前5~7世紀頃、インドの北方で釈迦族の王子として生まれましたが、29歳の時に妻子を残して出家し、35歳で悟りを開き、仏教を広めました。仏陀(ぶっだ)(悟りを開いた人)は広い意味では如来と同意ですが、多くの場合、仏陀=釈迦如来を示します。曹洞宗・臨済宗の本尊。

阿弥陀如来(あみだにょらい)

浄土宗・浄土真宗・天台宗の本尊。「アミターバ(無量光仏)(量りしれない光を持つ者)」、「アミターユス(無量寿仏)(量りしれない寿命を持つ者)」とも呼ばれます。浄土の西方「西方極楽浄土」に住むとされています。浄土宗・浄土真宗の念仏「南無阿弥陀仏」は、「南無」が礼拝時の挨拶の言葉で「信じる、お任せする、帰依する」などの意味を持ち「阿弥陀仏さまにすべてをお任せして帰依します」という意味になります。

薬師如来(やくしにょらい)

苦病を癒し、健康を守る仏様です。浄土の東方「東方瑠璃光浄土」に住むとされています。菩薩として修業中に現代でいうSDGsのような十二の大願(病気を無くす、窮乏を無くす、女性を平等とする、精神的苦痛を無くす、災害を無くす、飢餓を無くす等)を発し、それを完成させたといわれます。薬師というだけあり、仏像は左手に薬壺(やっこ)を持つものが多いです。

大日如来(だいいちにょらい)

真言宗の本尊。大光明遍照(だいこうみょうへんじょう)とも呼ばれ、太陽の光明のごとく宇宙を照らす、宇宙の存在そのものとされます。密教においては最高位の仏様で、釈迦如来阿弥陀如来も大日如来が姿をかえたものといわれています。また、密教では奈良の東大寺の大仏毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と同一であるとして、摩訶毘盧遮那如来(まかびるしゃなにょらい)とも呼ばれます。

毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、盧遮那仏(るしゃなぶつ)とも呼ばれます。奈良の大仏様(東大寺)の像が有名です。華厳経では「舎」を用いて盧舎那仏、大日経では「遮」を用いて盧遮那仏と表記します。密教 では 大日如来 と同一とされています。

菩薩(ぼさつ)

「悟りを求める者」。まだ悟りは開くに至っていないが、悟りを得るための修行中の仏です。まだ悟りを開いていないからなのか、耳飾りや胸飾りなど着飾った姿が多いです。助けを求める人のところに素早く迎えるよう、立ったままのことが多いのも特徴です。弥勒菩薩観音菩薩、日光菩薩、月光菩薩など。

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

兜率天で修行中の菩薩ですが、将来、釈迦如来の後を継いで仏陀になることが約束されており、釈迦の入滅後56億7千万年後に現れ、多くの人を救済するとされています。兜率天での弥勒の寿命が4000年で、兜率天での1日は地上の400年に相当することから、4000年×12カ月×30日×400年=5億7600万年だったのが、どこかで間違い(?)があり、56億7千万年と言われるようになったそうです。

観音菩薩(かんのんぼさつ)

観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)とも呼ばれます。観音さま(かんのんさま)ですね。女性の姿で現わされこともありますが、衆生を救うために六観音(聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音)、七観音(六観音+准胝観音)、三十三観音(楊柳・龍頭・持経・円光...)など、いろいろな姿に変化(へんげ)します。阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)でもあります。

明王(みょうおう)

如来の使者として人々に仏教を教え導く役目をもった仏です。人を導くために如来が変する化身であるともいわれます。鬼教官的な立場で憤怒の形相をしています。五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の他、愛染明王、孔雀明王、大元帥明王などがあげられます。鬼教官の中で孔雀明王だけは優しい顔をしています。

不動明王(ふどうみょうおう)

お不動さんとも呼ばれます。「動かざること...」ですね。五大明王のセンターを務めます。インド神話三大神の一人であるシヴァと同一視されます。憤怒(ふんぬ)相という怒った形相で、背後に炎、右手に三鈷剣(さんこけん)、左手に羂索(けんじゃく)という縄を持ちます。顔は怖いですが、慈悲深さを備えた明王でもあります。柔和な 大日如来 が仏教を広めるために鬼教官に扮している姿であるとも言われています。

天部(てんぶ)

天界に住む者の総称。仏教の守護神。諸天部とも呼ばれます。もともとはインドのバラモン教やヒンドゥー教等の古代神話の神であったものが、仏教にも取り入れられたものも多いようです。凡夫は三界(欲・色・無色)を輪廻するとされ、三界には28の天界があり、そこに天部が住んでいるとされます。梵天、帝釈天、弁財天、大黒天、韋駄天など。

七福神(しちふくじん)

天部として有名なのが七福神(恵比寿天、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋様、寿老人、弁財天)です。ヒンドゥー教の大黒天を比叡山延暦寺の最澄が祀ったことが最初と言われています。仏教の布袋様、道教の福禄寿、寿老人なども交わり、神道にも取り入れられるなど、仏教に留まらず、複数の宗教にまたにかけて活動しています。

宗派

日本の仏教
 ├ 南都六宗
 │ ├ 法相宗(ほっそうしゅう):道昭
 │ ├ 倶舎宗(くしゃしゅう):道昭
 │ ├ 三論宗(さんろんしゅう):慧灌
 │ ├ 成実宗(じょうじつしゅう):道蔵
 │ ├ 華厳宗(けごんしゅう):審祥
 │ └ 律宗(りっしゅう):鑑真
 ├ 平安二宗
 │ ├ 天台宗(てんだいしゅう)
 │ │ ├ 日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)
 │ │ ├ 日蓮宗(にちれんしゅう)
 │ │ └ 浄土宗(じょうどしゅう)
 │ │   ├ 浄土真宗(じょうどしんしゅう)
 │ │   └ 時宗(じしゅう)
 │ └ 真言宗(しんごんしゅう)
 └ 禅宗
   ├ 臨済宗(りんざいしゅう)
   ├ 曹洞宗(そうとうしゅう)
   └ 黄檗宗(おうばくしゅう):隠元
 

浄土真宗(じょうどしんしゅう)

浄土宗(じょうどしゅう)

真言宗(しんごんしゅう)

曹洞宗(そうとうしゅう)

日蓮宗(にちれんしゅう)

天台宗(てんだいしゅう)

臨済宗(りんざいしゅう)

用語集

三千世界(さんぜんせかい)/三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)
須弥山を中心として七つの海、四つの大陸、日、月、天界等からなる世界があり、世界が千個集まったものを小千世界、小千世界が千個集まったものを中千世界、中千世界が千個集まったものを大千世界といい、小千世界・中千世界・大千世界を総称して三千大千世界、略して三千世界と呼ぶ。
須弥山(しゅみせん)
世界の中心にそびえるとされる山。
三界(さんかい)
欲界・色界・無色界の三つの世界。欲界は欲のある世界、色界は欲からは解放されたが色(物質的存在)が残っている世界、無色界は色からも解放された世界。民衆は生まれ変わる度にこの三つの世界のいずれかに輪廻転生する。
六道(ろくどう/りくどう)
天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六つ。天道の上層部が無色界、中層部が色界、下層部および他の五つの界が欲界に属する。
十界(じっかい)
六道に、声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えた十個の世界。
輪廻転生(りんねてんしょう)
生まれ変わること。三界の中で転生を繰り返し、動物や虫に生まれ変わることもある。
浄土(じょうど)
煩悩や穢れが無く、仏や菩薩が住む清浄な場所。阿弥陀如来が住む西方の極楽浄土、薬師如来が住む東方の浄瑠璃浄土などがある。
涅槃(ねはん)
煩悩を滅して悟りの境地に達し、転生の輪廻から解放された状態であること。
四天王(してんのう)
帝釈天の配下で須弥山の四方を守る神。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天。
六波羅蜜(ろくはらみつ)
波羅蜜(はらみつ)はパーラミー(修行)を語源とする言葉。悟りを開くまでの六つの修行。布施(ふせ:施し)、持戒(じかい:戒律を守る)、忍辱(にんじょく:忍耐)、精進(しょうじん:努力)、禅定(ぜんじょう:心の集中)、智慧(ちえ:心理を見極める)の六つ。
色即是空(しきそくぜくう)
色(物質的なもの)は、即ち(すなわち)、空(実態のないもの)である。是 は英語の is に相当。
五蘊(ごうん)
人を構成する五要素。色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つ。色は物質・肉体、受は感受、想は想像、行は意思や行動、識は認識・意識などを意味する。般若心経ではこれらの五蘊はすべて実体のないもの(空)であると説いている。
六根清浄(ろっこんしょうじょう)
人間の六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)を清らかにすること。山登りをする際に「六根清浄」を唱えながら登ることも。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
あらゆるものはすべて、移り変わりゆくものであり、常に同じものではありえない。変わりゆくことを受け入れる教え。
舎利子(しゃりし)
お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)の十大弟子のひとりであるシャーリプトラ。お経の中には、お釈迦様が弟子の舎利子に言い聞かせるものが多い。
仏舎利(ぶっしゃり)
お釈迦様の遺骨。本物と認定されるものは「真舎利」と呼ばれ、日本では名古屋市の覚王山日泰寺に祀られている。
七法(しっぽう/しちほう)
七つの宝。金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・瑪瑙(めのう)・珊瑚(さんご)・硨磲(しゃこ)の七つ。法華経では珊瑚・硨磲の代わりに真珠・玫瑰(ばいかい)を入れるなど若干差異もある。
倶会一処(くえいっしょ)
倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う。極楽浄土に往生した人たちはそこで一緒に出会うことができることの教え。
刹那(せつな)
仏教で考えられている時間の最小単位。一度指を鳴らす時間の60分の1や65分の1とする説などがある。
帰依(きえ)
仏さまを信じて教えに従うこと。「南無」と同じ意味。
天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)
お釈迦様が生まれた時に発したと言われる言葉。天上・天下の中で「私が唯一尊い」の意味ととらえられることもあるが、「我々はそれぞれが唯一の存在であり、皆、尊い存在である」の様に「世界に一つだけの花」的な意味と解釈される。
ご真言(ごしんごん)
真実の言葉。阿弥陀如来は「おん あみりた ていせい から うん」、薬師如来は「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」、釈迦如来は「のうまく さんまんだ ぼだなん ばく」、弥勒菩薩は「おん まいたれいや そわか」など、仏様それぞれに真言が備わっている。
うんたらかんたら
不動明王の真言は「のうまく さんまんだ ばざら だん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらたかんまん」だが長すぎるので最後の「うんたらかんまん」のみを唱えていたのが「うんたらかんたら」に変化したもの。
ごたごた
鎌倉時代に宋から来日した兀庵普寧(ごったんふねい)という禅僧の言うことが理屈っぽく訳が分からないことばかりだったので、面倒でややこしいことを「ごったん、ごったん」と言っていたのが変化したもの。
どっこいしょ
山登りをする際に唱える「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」が変化して「どっこいしょ」となった説がある。
がたぴし
仏教用語の「我他彼此」。我と他人、彼岸と現世の対立がありうまくいかない様子を表す言葉から。
無学(むがく)
通常用語の無学は学が無いことを意味するが、仏教用語の無学は「これ以上学ぶものが無い」状態を示す。